Tauzuのブログ

成長記録およびゲーム制作日誌

「反省」と「自責」について

「反省」と「自責」は区別すべき、と言われる。

「反省」は次に活かせるが、「自責」は次につながらないから、と。

うわべの理解はできても、本当に納得することは難しい。

 

反省して、自分の落ち度が判明して、自分はダメな奴だと、自責する。

 

これってやりがちだし、私自身これを繰り返して生きてきた。

 

まあでもいよいよ、これの繰り返しで精神が疲弊してきたので、

なんとか対策できないかと色々考えてみた。

 

自分なりに導いた仮説

「自責」とは、「反省」からの逃避である。

 

要点はこう:

  • 「自責」とは、「反省」に失敗し、そこから逃げ出すことで陥る
  • 「自責」に陥ってしまったということは、「反省」に失敗していることを同時に意味する
  • 「反省」のやり方を見直せば、「自責」に陥らずに済む

 

何か失敗した、と自覚したとき、人はまずは「反省」しようとする。

ただ、冷静に「反省」できるかどうかはその人の精神的余裕の有無に左右される。

精神的余裕がないと、さっさと「反省」を済ませるために、「悪いのは自分」と結論を急いでしまう。

これが、「反省」から逃避して、「自責」に陥ってしまった状態である。

 

冷静な「反省」とは、失敗の要因を事実ベースで分解し、各要因が対処可能かどうかを分別する作業のことである。

 

ところが、冷静さを欠いてしまうと、とりあえず「自分はダメ人間」と結論付けて、「反省」したつもりになって、そこから「自責」という負のループへ落ちていくことになる。

 

では、どうすれば良いか。

次の2つの対処法が必要である:

  1. 「自責」のループから抜け出す方法
  2. 冷静に「反省」する方法

1.「自責」のループから抜け出す方法

自分が今「自責」しているな、と自覚するほかない。

「自責」を自覚というと難しい気がするが、単純に「今しんどいな」と感じたときに、「あ、もしかして自責しちゃってるかも」と軽く疑うぐらいでいい。

そういうとき、私の場合まずは、ノートとペンを取り出す。

そして、「自責」は、「反省」から逃げることだと認識し、改めて「反省」を1からやり直す。紙に少しずつ書き出しながら。

書き出す項目は3つ:

  • 自責を始めた状況(例:吉田さんに挨拶したら避けられた)
  • 自責中の症状(例:後悔、自己否定、食欲不振、気力喪失)
  • 自責の結果導かれた結論(例:自分は誰からも見向きもされない)

これらを書きだしたあとは、まるで他人の論文を査読するかのように、ひとつひとつ疑ってかかる。

吉田さんに挨拶したら避けられた

>本当に避けられたのか? 思い込みの可能性は? もう一度だけ挨拶してみて、検証すれば明らかになる。検証もせずに思い悩んでいても何も進まない。

後悔、自己否定、食欲不振、気力喪失

>まぎれもなく「自責」の症状であり、改めて「反省」のやり直しが必要だとわかる。

自分は誰からも見向きもされない

>極論すぎる。仮に吉田さんに嫌われていたとしても、他の誰からも嫌われることとは何の関係もない。それに何より、自分には信頼できる家族、なんでも話せる親友がいるではないか。

 

こうして「自責」を書き出して、「反省」をやり直してみると、自分がいかに結論を急いでいたか、無根拠に決めつけていたかがわかる。そして、次にとるべき行動が「もう一度吉田さんに挨拶する」ことだと、明確になる。

 

こうして、苦しい「自責」のループから脱することができるのである。

 

2.冷静に「反省」する方法

これは、1.を継続することで、1.の効果を実感することを繰り返すこと。

赤ん坊は、転んでは起き上がり、転んでは起き上がりを繰り返すことで、だんだんと転ばなくなる。それと似たようなものだと思う。

「反省」に失敗して、「自責」に陥って、1.を実行して立ち直り、またそのうち「反省」に失敗して「自責」して、1.を使って立ち直り・・・を繰り返していくことで、やがて「反省」に失敗しづらくなっていくと思う。

たとえ「反省」に失敗しても、またすぐ立ち直れるという安心感が得られるから。

まだ私自身、このレベルに達していないので、確証はない。

このやり方が本当に通用するかを検証するためにも、身をもって実践していこうと思う。

 

本日は以上。

 

 

 

ChatGPTがもたらす10年後

今日もタイトルを与えてもらって書く。

 

ChatGPTとは、言わずと知れた、文章生成AIをチャット形式で提供するWebアプリである。

 

ChatGPTがなぜ騒がれるのか

GPTが騒がれている要因のひとつとして、その影響範囲の巨大さがあると思う。

これまで、コンピューターサイエンスや、データサイエンス(ここでは、統計学の親戚と思っていただければよい)といった分野は、理系の中の一分野に過ぎないとされ、大多数の一般人には見向きもされてこなかった。

ところがどっこい、自然言語処理技術が発展すると、単語をコンピュータ上でベクトルに変換して処理ができるようになった。さらには、通信技術の発達によりビッグデータの取り扱いが容易になったことで、データサイエンスを応用してネット上のあらゆる文章情報が解析できるようになった。

するとどうだろう。

文章などしょせんは単語のパターン順列でしかなく、パターン処理の得意なコンピュータはたちまち文章を生成してしまったというわけである。

文章が与えられると、その文章に続く単語は統計的に予測可能であり、その予測単語のさらに次の単語、そのまた次の単語を反復して予測していくだけで、あっさりと長文を作れてしまったのである。

つまりは、理系の中の一分野に過ぎなかったコンピュータサイエンス、データサイエンスの分野が、理系はおろか文系の領域まで浸食してきたのである。

対岸の火事がこちら側に飛び火してきた、このインパクトは計り知れない。

GPTがもたらす10年後

10年後というと、2033年ぐらいのことか。

1年先ですら予測が難しいのに、10年先を予測なんざ途方にくれる。

それでもまあ考えるだけ考えてみよう。

星新一は、彼のショートショート「肩の上の秘書」(1971) で、シュールな近未来を描いた。この作品の設定はつぎのようなものである。

 

この時代の住人の肩にはインコ型ロボットがとまっており、他人と会話する際には、そのインコを介して喋るのが普通とされている。

つまり、人と会話する時、人は自分のインコにぼそっと一言つぶやくと、インコがそれを社交辞令に変換して大きな声で相手に伝える。一方相手のインコがそれを聞くと、その社交辞令を徹底的に要約して、要点だけを相手にぼそっと伝える。それに対して相手がまたつぶやいて相手のインコが社交辞令に変換して・・・を繰り返し、会話が進行していく。

 

なんともシュールな設定だが、10年後は、多少これに近い未来になると思う。

会話中、相手の発言の意図がわからなかったり、相手に嫌われずに自分の意見を伝える方法がわからなかったりしたことが、多かれ少なかれ誰しもあるだろう。

こういったコミュニケーションの不安を取り除くために、GPTに介入してもらう、といったことがどんどん浸透していくだろうと思われる。

具体的には、メッセージアプリ(今でいうLINE、SNSなど)にGPTが搭載され、自分が打ち込んだメッセージが、GPTによって洗練されるなり、相手を傷つけない言い方に変換されるなりして、相手側に送信される、といった仕組みが生まれるだろう。

これにより、SNS上での誹謗中傷を減らすことができるほか、ビジネスマナーを意識せずに取引先と円滑なやり取りができるようになることが期待される。そういう意味では、「理想的」なGPTの活用方法であると言える。・・・表面上は。

言い換えるとこれは、

相手が直接入力した生の文章を決して見ることができない

ということである。

これが良いか悪いかはまた別の議論となるので、今回はしない。

 

とはいえ、さすがに「肩の上の秘書」がそのまま現実化するとは考えにくい。

目の前の人と会話するのに、GPTを介してあからさまな社交辞令でやり取りするのは、いささかシュールで効率も悪い。

もちろん、言葉の通じない外国人とのやり取りで、スマートフォンを介して翻訳ついでに社交辞令に変換して会話する、というのはごく普通に行われるだろう。

だが、言葉が通じる者同士、いちいちあからさまな社交辞令変換しながら会話するのは、テンポも悪いし失礼にあたる。

「肩の上の秘書」が現実化するとしたら、スマートフォンが人体内部に埋め込まれて顕在化しなくなり、相手がGPTを使っているのかいないのかわからないレベルまでテクノロジーが発展したあとのことになるだろう。

そしておそらくこれは10年以上先のことになると思う。多分だけど。

今後をどう生きるか。

遅かれ早かれ、GPTが文章生成を行い、人間は大して作文しなくなる未来は訪れる。

作文と言ったが、これには「プログラミング」も含まれる。プログラムコードを書く作業も、文字を書き連ねるという意味で作文に違いない。

今でこそ、プログラミング言語は無数に存在し、それぞれが役割分担してそれぞれの分野で必要とされている。

だが、このままGPTが発展していけば、自然で漠然とした命令(例えば、「3Dアクション格闘ゲームのプログラムを作成せよ」等)から、適切なプログラミング言語で厳密なコードを生成できてしまうだろう。各プログラミング言語の特性の違いを理解する必要もなくなるかもしれない。

もはや、人間にしかできない作業など、ないのかもしれない。

 

では、未来には絶望しかないのか。

 

そう結論を急ぐのは良くない。

人はついつい、人間にしかできない作業とか、自分にしかできないこと、といったものを探してしまいがちだが、そんなことをする必要はないと、私は思う。

ちょっと周囲を見回せば、自分の代わりなんざいくらでもいるし、未来を考慮に入れると、現在の仕事が機械化されるのは時間の問題である。産業革命の度に、多くの職人たちが仕事を失ってきた。そんなことにいちいちオロオロしていてもしょうがない。

職を失えば、他の職を探せばいいだけのこと。

これって難しそうに見えて実はそこまでではないことだと思う。

技術革新が、いきなり国中すべての企業から職を奪うとは考えにくい。

まずは時代の流れに敏感な企業から、新しい技術に飛びつき、それに続く形で大企業やら中小企業やらに徐々に波及していく。

どんな革新的技術も、国全体に浸透するまでに、早くても10年はかかると思われる。現に、私が今いる中小企業は、大企業らがやっている技術に対して5~10年ほど遅れを取っていると体感する。

よくこれで倒産しないな、と不思議に思うぐらいである。

つまり、流行に敏感な企業では、既存職の機械化は早くやってくるが、そうでない企業では、枯れた技術が使い続けられたりする。機械化されたはずの仕事が生き残っていたりするのである。

世間的には需要の乏しいスキルであったとしても、それを買ってくれる会社があるなら、そこで働けばよいと思う。もしその会社が将来潰れるようなことがあれば、また別の会社を探せばよい。それも、とっくに機械化されたはずの職種で未だに募集し続けている時代遅れな会社を。それの繰り返しで、生きていける。それが、普通の人の、立派な生き方であろう。

変に将来のことを考えて、将来性が高いと言われているスキルを身に着けようとすると、競争率の高い戦いに身を投じることになって、結局うまくいかず、自分の無力さを嘆くことになるのがオチである。

柔軟に、気ままに、できることだけ、淡々とこなす。それが生きるってことだと思う。

 

目標(仕事以外)

仕事以外の目標について書いてくれと頼まれたので、書く。

現在の目標

  • 剣道三段合格
  • ゲームを作って公開までこぎつける(年内)
  • 吉田さんとデートする

現在はこの3本の矢で生きている。順に解説する。

剣道三段合格

審査は11月26日。約1か月後である。

実を言うと、7月にも審査があった。このとき私は審査に落ちた。

死ぬほど悔しかった。

落ちてから、稽古にいろいろと反省を取り入れてきたつもりだが、

明確な成果は実感できていない。

それでも、来月リトライしようと思う。

こういうのは、場数をこなすのも上達につながると思うから。

また落ちたら、また反省して、次の機会に臨むだけ。

3回落ちたら、そのときは考え直す。

3回落ちるまでは、余計なことを考えずに挑戦し続ける。

 

ゲームを作って公開までこぎつける(年内)

私は、ゲーム作りが趣味だった。

だが、ここ2年ほど、作品を完成させられずにいる。

スランプである。

ここで一度、考えを改めようと思う。

すごい作品を作ろうとするから、ダメなんだ。

いったん、クソゲーでいいから、最後まで作りきって、

販売までこぎつけようと思う。

そのプロセスを一通り経験しようと思う。

全く売れないだろうけど。

しょぼいゲームを作っては出し、作っては出しを繰り返し、

一連の手順を難なくこなせるようになって初めて、

すごい作品作りのスタートが切れるのだと思う。

たぶんだけど。

 

吉田さんとデートする

これはかなり長期的な目標である。

現時点では、全く手ごたえがない。

吉田さんは、私にまるで関心がない。

だから、長い時間をかけて、親しくなっていくしかない。

というかそもそも、なんで自分が吉田さんに片思いしているのかもよくわからない。

吉田さんのどこに惹かれたのか。

外見か?もちろんそれもある。眼鏡が似合っておられる。

他人に興味なさそうな、ミステリアスな雰囲気か。それもそうだろう。

そう。つまりはまだ、表面的な要素に対してしか惹かれていない。

こんなものは長続きしない恋だと、言われてしまうだろう。

それもそうかもしれない。

それでも、好奇心が、私を突き動かす。

わけのわからないものを知りたいと思う気持ちが抑えきれない。

恋愛経験の乏しい私は、ただその好奇心に振り回されて、

吉田さんを追いかける。

我ながら、情けないとは思う。

 

最後に

普段、目標をあまり言語化せずに生きていた。

こうして時々、文字に起こしてみるのは、良いことだと思う。

書いてしまった以上、達成に向けて行動しようという気になるから。

いつまで効果が持続するかはわからんけど。

まあ、せいぜいがんばる。

 

飲み会について考える

昨金曜日に、会社の飲み会があった。

その場は、異様なテンションで乗り切った。

終わった後、ぐったりした。

振り返ってみる。
 

やってる間は「楽しい8割、違和感2割」

楽しい8割

普段聞けない話を聞ける。面接官の着眼点とか、意外な人の意外な趣味とか。
普段とは違う自分を演じているときの異様な高揚感。
今までほとんど喋ったことのない人たちに対して、質問攻めにしたり、興味があるふりをしてみたり。
周りに認められていると錯覚し、承認欲求が満たされる気がした。

違和感2割

一方で、どこかで違和感も感じている。
平常時とは明らかに違うテンションで振舞う自分。
なにやってんだろう。
 

終わってからは「精神的消耗8割、身体的消耗2割」

反省による精神的消耗8割

落ち着けば、もっとうまく話せたのでは。
あの質問に対して、上手く返せていたら、もう少し盛り上がったかも、とか。
飲みの場での会話にどれほどの現実的効力があるのか。すべてなかったことにされるのではという不安。
あと、吉田さん(これは私が片想いをしている相手である)とおしゃべりするタイミングを逃したことへの反省。

単純な体力的消耗2割

まあでも、翌日の寝起きが少し悪かったぐらいか。精神的消耗が支配的だった。
 

ちょっと考えてみた

飲み会のメリットとして、一時的に承認欲求を満たすことができる。

これは、割と重要なのではないか。

なんか、いろいろ世の中に出回ってる通説として、

承認欲求は悪である」とか、「承認欲求は無くさなければならない」とか、承認欲求に対して否定的な意見が多い気がする。

でも、マズローの欲求5段階説によれば、承認欲求は人間のごく自然な欲求のひとつに過ぎないとされている。

つまりは、承認欲求が強いというのは、単に食欲旺盛なことと同じ軸で議論してよいのではなかろうか。

どれだけ食べても食欲が満たされずに暴飲暴食してしまうのが良くないのと同様に、いつまでも満たされない承認欲求を抱えて誰かに承認されようと必死になるのは良くないだろう。

だが、誰も食欲を否定しないのと同様に、承認欲求も、否定しなくて良いはずだ。

腹が減ったら食べるのと同じ様に、承認してほしくなったら、承認をくれる場所に行くべきだ。友達でも、職場でも、家族でも、飲み会でも、どこでもいい。信頼のおける人のいる場所に行くべきだ。

承認欲求は悪いものだと思い込んで、「自分は承認欲求なんてないぜ、一匹狼として生きていけるぜ」と格好つけても虚しいだけであり、無意味であろう。

 

ただ、注意点もある。

「腹八分が健康に良い」と言われているように、私は、「承認八分が健康に良い」説を唱えよう。

誰かが、自分の承認欲求を満たしてくれたなら、それに感謝して、それ以上は求めないこと。これが大事だと思う。

私は、友達とくだらない話をしたり、上司と冗談を交わしたり、家族と一緒に過ごしたり、吉田さんと二言三言おしゃべりしたりするだけで、承認欲求が満たされる。

もうそれで私にはお腹いっぱい。充分なのである。

承認欲求を否定するのではなく、自分の承認満腹ラインを自覚することの方が大事な気がした。

 

さいごに

飲み会後、消耗してしまう問題については、ちょっと別問題として解決すべきかと思ったので、今回は触れない。

多分これは、反省の仕方を工夫することで解決できる気がする。

今回は以上。

 

 

 

 

ボコノン教に入信しようと思う。

今日は、読書感想文を書きます。

 

最近読み終えた小説:

「猫のゆりかご」(1979)、カート・ヴォネガット・ジュニア伊藤典夫

について。

 

多分ネタバレ含みます。

 

雑なあらすじ

主人公「わたし」は、原爆発明者である今は亡き天才博士ハニカーが、原爆投下の日をどう過ごしていたのかを取材して出版するため、博士の息子らにコンタクトを取る。

ゆく先々で出会うイカレた人々と関わっていく中で、どうやら博士は原爆以外にもトンデモナイモノを発明していたことが発覚。それが、バカみたいな理由から世界各国の要人たちの手に渡り、世界滅亡の予兆が・・・と思っていた矢先、これまたバカみたいなきっかけから一瞬にして世界が滅ぶ、そんなお話。たぶんちがう。

 

感想は主に2点。

  1. 「死ぬほど読みづらい。」
  2. 「これはSF小説ではなく宗教読本。」

 

1.「死ぬほど読みづらい。」

これについては根拠は次の通り:

  • アメリカン・ジョークを日本語に訳すとわけがわからなくなる
  • 英語の方言を皮肉る箇所がいくつもあるが、日本人にはさっぱりわからない
  • シニカルなユーモア(?)が翻訳されたことでシニカルなのかユーモアなのか何なのかわからなくなっている

まあ要するに、作者は日本語に訳されることなど想定せずに書いたってことでしょう。

訳者の方の血の滲む努力には頭が下がりますが、アメリカ人のイカレたジョークを私のような凡庸な日本人に訳して伝えるなんてまあ無理でしょう。

 

作中人物であるホテル経営者のセリフを引用:

「(おやじの)笑いが止まらない。懐中電灯を持って外に出て行った。まだ、くすくす笑ってる。おやじは、外に積んである死人の山に懐中電灯の光を踊らせていた。そうして、僕の頭に手をおくと、大した人だよ、なんと言ったと思う?

こういったんだ。”息子よ、いつかはこれがみんな、おまえのものになるんだ”」

これはユーモアなのか、ジョークなのか、呪いの言葉なのか、なんなんだ・・・?

 

ちょっとこの本は私には早すぎたようです。

 

2.「これはSF小説ではなく宗教読本。」

本書の最初の1ページ目を引用する。

本書には真実は一切ない。

 

「<フォーマ*>」を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」

               『ボコノンの書』第一の書第五節

 

    *無害な非真実

 

もうこの1ページだけでこの本がいかに狂っているかがわかるかと思う。

実はこの小説はSF小説に分類されるらしい(本書の裏表紙より)。

が、1ページ目が雄弁に、本書が布教を目的とした本であることを語っている。

 

小説内の架空の宗教:ボコノン教である。

主人公の「わたし」も、キリスト教からボコノン教に改宗することになる。

 

この宗教がまたなかなかクセが強くて。

小説の中で、「これがボコノン教だ!」みたいに明記されているわけではない。

物語が進むにつれて、場面場面で唐突にボコノンの教えが引用されてきて、少しずつボコノン教の全体像がぼんやりとわかってくる感じである。

もちろん、読み終えた今でも、ボコノン教が何であるのか結局わからないのだが。

 

一番ボコノンをボコノンたらしめている文を引用すると、

全能の神があらしめているわざの真の意味を見きわめようとする人間に、ボコノンは何の戒めも与えない。そのような試みは中途半端に終わるのがおちだ、とだけボコノンは言う。

これは要するに、この世の理を探求し解明せんとする科学や学問といったものを、遠回しバカにしているということである(と私は理解した)。

SF小説でありながら、科学をバカにしちゃっていいのか?と一瞬思ったが、よく考えると、Science Fictionは、Scienceに魅せられながらもどこかでScienceをバカにしていないと書けない代物なのかもしれない。

研究漬けのガチガチ頭の教授たちは、Scienceを妄信し、自分の研究の正当性を信じてやまない。SF小説を見かけると科学的に論破せずにはいられない彼らに、SFなど書けっこないだろう。

Scienceにある程度精通していて、それでいて妄想を膨らませることのできる、夢見がちな人であれば、SFを書けるのかもしれないな。そんな人は、やはり研究には向かない(と現役の教授陣には判断される)のだろうけれど。

 

さて、あまり深い考察はできていない(というか読書初心者の私にはこの本は早すぎた)が、もうそろそろ終わろうと思う。

 

結論

ボコノン教に入信しようと思う。

 

あと、この本は全くオススメしません。

 

 

楽に自問自答するため。

特別お題「わたしがブログを書く理由」:

楽に自問自答するため。

 

私は、よく頭が回る。これは、良い意味ではない。

無意味に、頭が回る。

つまり、考えても無駄なことばかり考えて、疲弊する。

 

なんでもっと準備してから就活に臨まなかったのか、とか。

このままずっと退屈な日々を過ごしていくのに意味はあるのだろうか、とか。

 

考えても仕方がないとわかっていながら、

それでもやめられない、思考の癖。

いや、もはやこれは思考とは呼べないな。

 

過去の自分を否定し、将来への漠然とした不安に浸って、

そして、なんてかわいそうな自分。と慰めるまでがルーティン。

これは、ただの精神的な自慰行為だ。

 

こんな状況を少しでも変えるべく、

思いをテキストに起こしてブログに書くことで、

脳から思考を切り離して、

少しは楽に自問自答ができるかもと思った。

 

というわけで、実はこの記事はブログ初投稿記事でした。

いつまで続けられるかなブログ。長続きさせたいなあ。